FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「保育園落ちた日本死ね」の流行語大賞受賞に関する騒動について。

 このところモヤモヤしていたことについて、ちょっと書いてみようと思います。

 「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞に選ばれたことで、また議論が沸き起こっていますが、それを見ていると、どうしても引っ掛かる点が幾つかあります。

 まずひとつは、これが流行語なのかという点。
 私が流行語という言葉からイメージするのは、多くの老若男女がその言葉をいつも耳にしたり、中にはそれを自ら口にしてみる人がいたり、というものですが、「保育園落ちた日本死ね」あるいは後半だけ取った「日本死ね」に、そこまでの波及力があったとは思えません。
 もともとがブログで出てきたということで、ネット空間では言葉として流通したかもしれませんが、そこを超えた使われ方はされなかったように思います。
 これが、例えば「インパクト大賞」のようなものなら該当になってもおかしくないと思いますが、流行語大賞というのは、ちょっと違うような気がします。

 だからといって、この言葉自体を批判する気にはなれなかったし、「日本死ね」という言葉を批判している人たちには強い違和感を覚えていました。
 例えば、私が目にした中に「『韓国死ね』、『中国死ね』はダメなのに、『日本死ね』はいいのか」という批判がありましたが、それは同じ土俵上で比較するのはおかしいだろうと思いました。

 そんな中、今日の(というか、日付が変わったので、もう昨日になりましたが)「ワイドナショー」で、評論家の古市憲寿が「保育園落ちた日本死ね」を批判する人たちへの批判をツイッターに上げたところ炎上したことについて、当の本人が考えを述べていました。
 古市憲寿がツイッターで述べたのは、もともと「保育園落ちた日本死ね」はブログの文章なので、文脈の中で意味を持つ言葉なのに、そのブログを読まずに「日本死ね」という言葉を批判するのはどうか、というものだったのですが、それに対して「古市死ね」というリプライがたくさん来たことについて、彼は「(「古市死ね」と返してくる人たちの)国語能力の絶望的な低さにどう対応していいかわからない」と述べていました。

 私は、いつもな古市憲寿の発言に対して必ずしも肯定的ではないんですが、今回に限ってはまったく同感です。
 先ほど例にあげた「韓国死ね」「中国死ね」と「日本死ね」に比較についても、韓国や中国は他所の国というまったく外在化されたものであるのに対し、日本は自分自身がその一部であり、そういう存在である日本に対してと外在化された韓国や中国に対し同じ言葉をぶつけたとしても、その意味合いは大きく違うはずだし、そこを汲みとって理解すべきだろうと思ったんですが、単純なフレーズだけを取り上げただけの批判からは、確かに古市憲寿のいう「国語能力の絶望的な低さ」しか伝わってこないかもしれません。

 私などは、ある方面の方々の「現在の自民党政府に対する批判に繋がるものは何としても叩く」という意志が今回の騒動から透けて見えるような気がするんですが、一方で、「日本死ね」批判派への批判、つまり立場としては古市憲寿と同じながら、これはどうかと思うものもあります。

   <https://twitter.com/kurokawashigeru/status/804909884797878272>

 とんだ勘違いだと思いますね。
 この方が、どういう意味で「政治的」とか「文学部的」という言葉を使っているのは不明ですが、一般的に、政治的言説として理解することは、受け手側の政治的ポジションによって捉え方が異なってきます。保育園の問題は最終的には政治的な問題になりますが、それと政治的言説として理解することはイコールではないでしょう。
 「読書感想文だけが形成した言語文化」などと言う前に、まともな読書感想文を書けそうにもない人たちからの批判が相次いでいることを認識したほうがいいのではないかと思います。
 
 いずれの立場の人も、目の前に差し出されたものを認識し理解する時に、まず政治的ポジションというフィルターを外してから向かい合うことはできないんでしょうかねぇ。


にほんブログ村 その他日記ブログ 公務員日記へ
にほんブログ村

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

マンマーク

Author:マンマーク
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。